ブー先生の音楽教室

学校では教えてくれない、音楽のことを書いています。

日本が生んだ西洋音楽のパイオニア瀧廉太郎!

ようこそ!ブーです。

今日は日本の作曲家、瀧廉太郎さんを紹介します。(ピエール瀧さんじゃありませんよ!)

「瀧」の字が難しいので、一般的には「滝」の表記が多いようです。

 

ブーが学生のころは「たきれんたろう」を略して「タキレン」って呼んでました。(友達かよっ!) 

今思うと、日本を代表する作曲家に対して超失礼だ…。

 

 

学校の音楽室に肖像画あるよね。

1度は目にしたことがあるハズ…。

メガネをかけてるからちょっとガリ勉ぽくて、ヒョロっとして色が白く(カラー写真じゃないのが理由じゃなくて、本当に色が白かったらしいよ)幸が薄そうな顔をしたあの人です。←ヒドイ

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学校の音楽室にある作曲家たちの肖像画の中でも、数少ない日本人ということで親近感があって、

学校の怪談的な怖い感じもないし、圧倒的に『安心する、ほのぼの系の顔』してるよねぇ。

 

 

どんな人?

1879年8月24日~1903年6月29日(23歳没)の、とても短命な作曲家です。

肖像画も若い感じだからね。

作曲家といったら短命な人が多いですが、瀧さんはその中でもダントツに短命です。

 

8人兄弟の長男で、だから名前に「太郎」が入っています。

彼の11歳年下の妹は、ジャーナリストの今は亡き筑紫哲也さんのおばあちゃんなので血が繋がっていますが、筑紫さんは音楽的才能が皆無だったようで「血縁と言いたくなかった」そうです。

 

東京出身となっていますが、お父さんの転勤でいろんな土地に移り住みました。

子どもの頃から西洋的なものに興味があり、1900年10月7日には洗礼を受けてクリスチャンになっています。

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あまり知られていませんが、瀧さんが1900年に作曲した「メヌエット」は日本人が書いた初めてのピアノ独奏曲と言われていて、

やはり作曲やピアノ演奏を得意としていたので、日本人では2人目となるヨーロッパへの留学生として、1901年4月にドイツへ飛び立ち、

いろんな分野の日本人と交流を持つことで有意義な留学生活を送っていました。

 

しかし、わずか5ヶ月後の11月には体調を壊してしまうのでした。

彼は、肺結核という病気に侵されていたんです。

 

当時の結核というと医療が今ほど進歩しておらず、食事などの栄養面も認知されていなかったので、治ることが難しい病気でした。

 

ドイツの病院では病状が改善せず、1902年7月10日にはとうとう帰国し、お父さんの出身地で自然豊かな大分県へと療養のために移り住むことに、

ですがその甲斐も無く、1903年6月29日午後5時に自宅で亡くなりました。

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亡くなった後は大分市内のお寺に葬られ(クリスチャンなのに…)

2011年、親族の意向により瀧家の墓所である、龍泉寺へとお墓が移設されました。

龍泉寺は瀧廉太郎さんの先祖が、江戸時代から代々家老職を勤めていた豊後国日出藩(現在の大分県日出町)にあります。

 

 

最後の作品は、亡くなる数ヶ月前に書かれた「(うらみ)」というピアノ曲です。

なんだか、意味深なタイトルですよね。 

 

演奏時間は3分程度という短い曲ではありますが、その中にはいろんな感情が入っています。 

 

「憾」という字の通り、始めから曲調は暗く、ジワジワと病魔が襲ってくるような不穏さと、「あの木の葉っぱが全部落ちたら、自分も死ぬんだな」って絶望的な感じ。

 

なんと言っても曲の終盤が本当に怖くて、命が燃え尽きる最後の一瞬の荒々しい鼓動みたいな怒涛の音の波がきて、シーンとしたあとに1音だけ「ドン!」って終るのが、

気持ち的に心電図の「ピッ…ピッ……ピッ………ピーーー」のようで恐ろしいです。

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夜には聴きたくない~。

 

ブーが聴いたこの曲の感想は「シューベルトの“魔王”をかなり大人しくて短くしたヴァージョンとか、ベートーヴェン的な曲」という印象ですが、それは多分、ドイツ留学の影響かもしれませんね。

 

 

 

今となっては真相を知ることが出来ないので、都市伝説化しています。

滝さんの作品「雪やこんこん」と「鳩ぽっぽ」は、現在知られている文部省唱歌の「雪」や「鳩」という童謡とは別物と言われていますが、

実は文部省が滝さんの亡くなった後に、歌詞とメロディを少しだけ書き換えて発表したという説もあるんです。

 

それは歌詞やメロディがすごく似ているだけではなくて、国の機関である文部省が「作者不明」という不可解な曲をわざわざ唱歌として定めたというところにあります。

 

その他にも

  • ドイツへの留学も、文部省が才能のある瀧さんをジャマに思い、日本から追い出すためだった。
  • ドイツ留学もはじめは3人行く予定だったのが、文部省がいろんな理由をつけて、結果的に独りで行かされた。
  • そもそも結核になったのも文部省の陰謀。
  • 文部省への恨みから書かれたのが最後の作品「憾」。
  • 瀧廉太郎さんが亡くなったあとに、結核菌が付いているからと未発表の作品を燃やしたのは文部省の通達。

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など、いろいろな都市伝説があります。

 

信じるか信じないかはアナタ次第です!(笑)

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