なんで、年末になるとベートーヴェンの「第9」の演奏会が増えるんだろう?
ようこそ!ブーです。
今日はベートーヴェンの「第9だいく」と、なぜ年末に演奏会が多く開かれるのかを説明します。
ベートーヴェンについてはこちらをご覧ください↓
大工じゃないよ第9だよ!
交響曲第9番ニ短調作品125(合唱付)、ドイツ語ではSymphonie Nr.9 d-moll op.125はベートーヴェンが1824年に作曲した生涯最後の交響曲で、4楽章編成です。
演奏時間は60~74分ほど。
なぜ中途半端に74分かというと、この曲がCD製作のときに記録時間を決めるバロメーターになったと言われているからです。
第4楽章に4人の独唱(ソロ)と混声合唱(コーラス)の各4パートが入った珍しいタイプの交響曲で、ベートーヴェンが名前を付けたわけでは無いですが、楽譜には「合唱付」と書かれることが多く、
歌詞にドイツの詩人シラーの「歓喜に寄す」が使われているため「歓喜の歌」と呼ばれることもあります。
「第9」って呼ぶのはもちろん日本だけです。
歌詞の大まかな意味は、希望に満ちた世界平和で「Heyブラザー!音楽を通してみんな仲良くしようぜ!人類は同じ船に乗った兄弟だ!同じ場所(楽園)を目指そうぜ!」ってこと。
第4楽章ばかり注目されますが、もちろん全楽章素晴らしく「本当にベートーヴェンって耳聴こえなかったの?」って思うくらい、壮大な作品なので聴いてみて下さい。
第9は指揮者によって演奏の早さが違うのも、特徴的で面白いので聴き比べなんて良いですよね。
カラヤン指揮のものは、楽譜を見ていると目が追いつかないくらい軽やかで速く、華やかさがあります。
フルトヴェングラー指揮のものは逆に遅くて、良い言い方だとドッシリしてて深みがあります。
アレな言い方だと、おじいさん特有のドッコイショ感がすごくて笑えるんです。
ブーの中では「おじいちゃんだから手がフルフル震える、フルトヴェングラー」のイメージ。
日本で第9の演奏会が開かれる理由
何でベートーヴェンと縁もゆかりも無い日本で、しかも大事な一年の締めくくりの年末に、第9の演奏会が増えるのでしょうか?
「年末の第9」の始まりは1947年と言われていて、演奏会が開かれる理由は年末という時期と戦後にあります。
昔から日本で年末といえば、お餅を飾ったり、そばを食べて年を越し来年も元気に頑張ろう!といった感じですよね。
戦後はとくにオーケストラの経営が難しく、楽団員にお給料を払うのもやっとの状態だったため、年末年始のお餅代や、お年賀的なものもあげられません。
楽団の経営陣が「楽団員たちのお餅代」を払うためには、演奏会にお客さんがイッパイ入ってくれることが1番大事です。
そこで考え、生み出された案が「ベートーヴェンの第9は、オーケストラとは別に合唱の人数が増えるので、ネズミ講式にチケット代や集客率が増える」ということだったようです。
「そんな良い方法があったのか!」と他の楽団がマネする事によって東京で「年末の第9」が定着していったのでした。
戦後の日本はオーケストラの質がまだ良くなく、その質を上げるためにも第9はちょうど良い曲だったようで「これが全部演奏できるようになれば一人前」と言われていました。
演奏技術をはかる最終関門としても使われていたんですね。
そのため「集客もできる、1年間の演奏の集大成といえる曲」として扱われるようになったので、東京だけでなく地方でも演奏される機会が増えました。
こうして、日本全国に「年末は第9」が広まっていったんです。
海外でも、1918年にベートーヴェンの祖国であるドイツの管弦楽団が、第一次世界大戦後の復興や平和を願って年末に演奏し続けていました。
とにかく影響力のある交響曲第9番の第4楽章
「やっぱり第9は迫力があるからな~」とかいった次元の話じゃ無くて、世界の調和のためにはこの曲が1番いいと思うんです。
歓喜を意味する「Freudeフロイデ」を自由という意味の「Freiheitフライハイト」にかえて歌われたりしているので、世界的な歴史の節目にはふさわしい曲なんじゃないかな。
第一次世界大戦と第二次世界大戦後や、1989年ドイツのベルリンの壁崩壊後、日本でも大震災の復興など「みんなで頑張らなければいけない時期」には欠かせない曲でした。
世界とつながることができる平和の象徴のような曲だから、1998年の長野オリンピックのときには小澤征爾さんの指揮で世界の5つの都市と生中継もされました。
こんな混沌とした(カオス化した)時代だからこそ、世界平和を願って2020年の東京オリンピックでも演奏してほしいものです。