20世紀の最高傑作と呼ばれる交響曲を書いたのは、昆虫と民族音楽オタク!?
ようこそ!ブーです。
今日は、20世紀最高の交響曲と言われている「管弦楽のための協奏曲」と、その作曲者のバルトークについて説明します。
Concerto for Orchestraコンチェルト・フォア・オーケストラ<管弦楽のための協奏曲>
バルトーク・ベーラの作品で、20世紀の最高傑作の交響曲と言われています。
それはこの曲が、さまざまな曲を引用していること、いろんなジャンルの音楽を集合させた新しい時代の音楽に聴こえるのでこういわれてるんです。
ジャズやロック、映画音楽にも影響を与えています。
5つの楽章から出来ていて、改定前の演奏時間は第1楽章9分48秒、第2楽章6分17秒、第3楽章7分11秒、第4楽章4分8秒、第5楽章8分52秒と楽譜に指示が書いてあります。
全曲でおよそ36分26秒。(こ、細かい…)
実際の演奏時間は、40分以内ですね。(笑)
題名のナゾ?
「題名は協奏曲なのに、なんで最高の交響曲なの?どっちなんだ、はっきりしろよ!」と思いませんか?
本当はこの曲、交響曲なんですよね。
協奏曲はピアノやヴァイオリンなど1つの楽器が主役になって(ソロで独奏)、伴奏にオーケストラが演奏する曲のことです。
交響曲は、管弦楽ヴァイオリンや、トランペットなど一般的なオーケストラの楽器を使って演奏され、何楽章かに分かれている大規模な楽曲のことなので、本当はこちらに当てはまります。
でも作者の意図は、1種類の楽器(ソロ)と楽器全体(トゥッティ)で弾くことによって、聴いたときに「薄い響き」と「厚い響き」という差がちゃんとあるし、
作曲を依頼されたときに、「バッハ作曲のブランデンブルク協奏曲集のオマージュ」を完成させるように頼まれていたことを思い出して、現代版として書いたのがこの曲だと言われているので協奏曲という題名なんです。
20世紀の最高傑作と呼ばれる理由
この曲の魅力は、その壮大な世界観です。
今までクラシックに無かった、民族的な部分やロックのような部分など、いろいろな要素が入り混じって出来ているので「おぉ!こんな曲は聴いたこと無い!これこそ新世代の音楽だ!」と評論家の人は思ったのでしょう。
ブーもこの曲に地球の創造を感じたよ。
第1楽章Introduzioneイントロドゥツィオーネ(序章)は、まず弦楽器がゆったりとした低音で世界観を膨らませ、そして管楽器とハープの神秘的な響きの中で、空気を振動させるように弦楽器が細かく演奏するので宇宙の壮大な感じが出ます。
ゆったりとしていたのに、急に打楽器が入り込みほかの楽器は高音と低音の厚い響きで勇ましく壮大な感じをだすので、いったん驚くと思います。(笑)
管楽器の演奏は圧巻で、「序盤でこんなに飛ばして大丈夫なの」と思わせますが、ちょっとずつだし、この楽章は急に終わるので大丈夫です。
第2楽章Presentando le coppieプレゼンタンド・レ・コッピア(対の掲示)は、小太鼓からはじまり、リズムが独特で「ドンダッタッター」みたいな民族の儀式の感じがします。
楽器は同じものなのに平行して異なった音を演奏するので、なおさら民族っぽいです。
第3楽章Elegiaエレジア(悲歌)は、絶対に何にも交わらないといった感じで、バルトークらしい感じがします。
楽器全体でヒョロヒョロっと漂っていたかと思ったら、悲しみと怒りのようなティンパニと管弦楽器の叫びが大音量で出てきます。
中間部では、管楽器のヴィオラの旋律にバルカン民謡のような勇ましい旋律が垣間見えます。(ヨーロッパ東南部の音楽で、国は違いますがトロイカやコロブチカに似ています)
嘆きなのか叫びなのかといった重々しい空気感のあとに、解決しそうな雰囲気を漂わせているのに解決しないままモヤモヤっと終わります。
第4楽章Intermezzo interrottoインテルメッツォ・インテロット(中断された間奏曲)は少しトルコ風やアラビアンな感じで軽快です。
中盤でバルトークの嫌いなヒトラーが大好きだったショスタコービチの「交響曲第7番レニングラードの第1楽章」の勇ましいところと、オペレッタの「メリー・ウィドー」の愉快なメロディーがわざと使われていて、
そのあとのあざ笑うかのような流れとブーイングの「ブーブー」まで再現しています。(どれだけヒトラーのこと嫌いなんだよ…)
コロコロ拍子も変わるので聴いていて楽しいです。
そんな中にも、母国のハンガリーらしいオペレッタ「ハンブルクの花嫁」の有名なアリア「美しく、素晴らしいハンガリー」のメロディーを使って祖国への思いを馳せたロマンチックさを出しています。
ブーは楽しいから、この楽章が1番好きです。
第5楽章Finaleフィナーレ(終曲)は、迫力のある金管楽器から始まって、何かあって急いでいるのかな?といった緊迫感です。
軍隊が出陣するようなあわただしさと、時折あらわれる美しいメロディーが不思議な調和をもっていて曲にメリハリがあります。
終わり方も「ジャンッ!」で終わるので最終章にふさわしく、聴き終わったあとは清々しいです。
バルトーク
Bartók Béla Viktor János (バルトーク・べーラ・ヴィクトル・ヤーノシュ)、1881年生まれ、ハンガリー王国出身。
肩書きは、作曲家、ピアニスト、民族音楽研究家。
身長は165センチと大柄ではなかったけど、手はかなり大きくピアニストとしては恵まれていました。(うらやましいなぁ…)
バルトークの生涯
両親とも音楽にたずさわっていたので、小さなころから音楽に触れる機会がありました。
小さいときから病弱でしたが、4歳で自己流のピアノ曲を40曲も弾くことができたらしく、すでに常人にはない音楽的素養(才能)を持っていたんですね。
そのため「自分は将来ピアニストになるのだ!」と強く思っていましたが、音楽コンクールで思うような結果が出なかったのでかなり落ち込みます。
同郷だった音楽の先輩(友人ドホナーニ)には「国際色豊かなウィーンの音楽よりも、母国ハンガリーの作曲家としての自分を意識するべきだ」と言われたので音楽の勉強をするために、現在のリスト音楽院に通い、ハンガリー周辺のドイツやオーストリアの伝統的音楽を習いました。
その中でフランツ・リストの弟子から教育を受けたので、リストの孫弟子という肩書きもあります。
若いころは、いろんな作曲家から影響を受けて作曲活動、卒業後はピアニストや大学のピアノ科教授としても活躍していたのでした。
世界を飛び回る演奏家としてじゃなく、作曲家や教育者としてハンガリーに身を落ち着けたことで民族音楽の収集や研究などがはかどりました。
研究としては、母国ハンガリー各地の農民音楽の収集や、東ヨーロッパの民族音楽の分析と収集、そしてなんと民族音楽の研究のためにアフリカはアルジェリアまで足を伸ばすなど、
ブーのイメージ「バルトークは引きこもり」に反して、意外に精力的な活動してたんですね。
ハンガリーではいろんな曲を作曲していましたが、政治的な圧力で自分の作品が認めてもらえないし、第1次世界大戦で敗戦国となったハンガリーでは自分がしたい音楽活動が出来ない日々が続いていました。
とうとう第2次世界大戦まで勃発し、それと同じ年にお母さんが亡くなったのを機に、ヨーロッパから去ることを決めました。
安住の地に選んだのはアメリカでしたが、そこでも不幸がまっています。
自己中心的で人と打ち解けるタイプではなかったバルトークにとって、アメリカは居心地はよくないし、なんと白血病になってしまいました。
当時の医学は、今ほど進んでいなかったのでどれほど大変だったことでしょうね。
そのため体調がすぐれず、作曲の意欲もなくしてしまったのです。
そんな彼を励ますために、ある日ボストン交響楽団の指揮者から依頼が舞い込んできました。
最初は「体力的、精神的に無理」と言って断っていましたが、「この作曲に期限はありません」と言われたので着手することに…。
作曲の意欲を失っていたバルトークでしたが、いったん書き始めるとそんなことは忘れるくらいに没頭し、驚異的なスピード(2ヶ月以内)で書き上げます。
それが「管弦楽のための協奏曲」です。
そして、作曲の意欲をとり戻したバルトークは亡くなるまで作曲を続けたのでした。
もしこの依頼が無かったら、きっとバルトークが素晴らしい作曲家だと言うことはここまで後世に伝わることはなかったでしょうね。
そんな彼も、祖国に帰ることも出来ないまま1945年に亡くなり「ナチスドイツや共産主義のソ連の名前が残ってるうちは祖国に埋葬するな」との遺言どおり、いったんは亡くなったニューヨークに埋葬されたのでした。
1988年、民主化が進んだハンガリーに43年も経ってやっとバルトークが帰れるときがやってきました。
バルトークの息子と、バルトークを敬愛していた指揮者のゲオルク・ショルティなどの頑張りによってなんと国葬で迎えられたのです。
(ゲオルク・ショルティはバルトーク好きすぎて隣のお墓に入ってます。)
確かに音楽家は変わった人多いけど、バルトークって変わってると言うよりオタクじゃね?
バルトークは民族音楽研究家と言うだけあって、良いように言うと研究熱心、アレな言い方だと「かなりの収集癖」があったようです。
民族音楽の収集だけじゃなくて、昆虫を採集して綺麗にキレイに標本にしてたって言うんだから、本物ですよねぇ。
性格的には偏屈で頑固で笑わない、自分ルールがあってその決まりを崩されるのが嫌な感じです。
べつに、変な趣味を持っていてもいいしバルトークの音楽は面白いと思うけど、すごく細かそうな性格だからブーは友達になれそうに無いな。(笑)