フランスの作曲家モーリス・ラヴェルその①
ようこそ!ブーです。
今回は、大好きな作曲家ラヴェルを紹介します。
好きすぎて1回に収まりそうに無いので、2回です。(笑)
『ラヴェルの音楽は難解すぎて頭が痛くなる』とか言われたりしますが、気にしません!
好きなんだからしょうがない!
みんなに少しでも良さを解ってもらうには、とにかく知ってもらうことが大切だと思い、記事にしました。
聴きながら読んでね↓
ラヴェルの生涯
Joseph Maurice Ravel(ジョゼフ=モーリス・ラヴェル1875年3月7日-1937年12月28日没)はフランスの作曲家です。
生涯独身でしたが、音楽的才能・紳士的な服装・上品な立ち振る舞い・エキゾチックな顔立ちを持ち合わせていたので、かなりモテたのは言うまでもありません。
スイス出身の発明家・実業家の父と、バスク人(フランスとスペインの国境付近に住む系統不明の民族)の母、そして弟という家族構成です。
ラヴェルは独身、弟は晩婚だったのでラヴェル家の血筋・子孫は居ません。
彼は、音楽好きの父の影響で6歳からピアノを、12歳で作曲の基礎を学び始めました。
そして本格的に音楽の道へ進むために、世界各国の音楽院・音楽大学のモデルにもなっているパリ音楽院(現在の“パリ国立高等音楽・舞踊学校”)へ14年間通います。
当時のパリには、若く革命的な芸術家が多く居たのでラヴェルはそこで様々な影響を受けました。
1898年に作曲家として公式デビューを果たしたのち、有名なローマ賞の大賞(経済的支援を受けられる)を狙い5回挑戦しますが、5回とも大賞を逃してしまいます。
『ラヴェルが5回も落選するなんておかしい、ましてや5回目が予選落ちなんてありえない!不正があるのではないか?』と音楽評論家の間でウワサになり、その他の芸術家も不当な審査に対して抗議をしました。
そして、本選を通過した6人全てが審査員の門下生(教え子)だったことが発覚して、当時のパリ音楽院の院長が辞任に追い込まれる事態に発展したこの出来事は、「ラヴェル事件」と呼ばれます。
パリの音楽的な組織(国民音楽協会)でもこういう不正が蔓延していたため、ラヴェルが発起人として1909年に独立音楽協会という『現代的な音楽の創造を支持すること』を目標とした、型にとらわれない音楽団体を新たに設立しました。
この音楽団体には、前衛的で有名な作曲家も所属しています。
フォーレ代表作「夢のあとに」、シェーンベルク代表作「月に憑かれたピエロ」、ファリャ代表作「火祭りの踊り」、バルトーク代表作「管弦楽のための協奏曲」、「火の鳥」や「ぺトルーシュカ」などのバレエ音楽で有名なストラヴィンスキー、などなど…
協会の設立は、ラヴェルが音楽と自分の祖国を愛しているからこそ行なわれた取り組みです。
祖国に対する愛ゆえに、第一次世界大戦ではパイロットになることを志願しています。
虚弱体質で年齢的にもおじさんになっていたため、残念ながらパイロットにはなれませんでしたが、運送兵として兵籍登録してもらえることになり、砲弾の下をかいくぐって資材を届けるような危険な仕事を任されても喜んで戦地へ向かうほど、国のために尽くそうとしました。
しかし、健康を害してしまったためパリへ戻ります。
それでも戦争は終わらず、彼から多くの友人を奪っていくのです。
戦争が終わると、今度は新しい音楽が流行りだしラヴェルの音楽は最先端では無くなり、よき理解者で最愛の母も亡くしていたので創作意欲もありません。
そこで心機一転、アメリカで4ヶ月の演奏旅行を行ない大成功を収めます。
アメリカではジャズやspiritualスピリチュアルと呼ばれる霊歌などの音楽と、大都会の町並みに感銘を受け、パリへ帰ってからわずか4曲ではあるものの作曲を再開することができました。
しかし、最大の悲劇が彼を襲います。
タクシーに乗っているときに交通事故に巻き込まれ、頭に損傷を受けてしまったのです。
その前から軽度の記憶障害や言語症に悩まされていましたが、この事故でその症状がさらに悪化。
最後のコンサートでは気丈にも代表作の「ボレロ」の指揮をしましたが、コンサート終了後にファンからサインを求められても、この頃には名前すら書けなくなっていました。
病床の彼は友人に『私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。それをもっとみんなに聴かせたいのに、…もう一文字も書けなくなってしまった』と泣きながら訴えました。
ある日、そんな彼を慰めようと友人が初期の名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」を聴かせてあげます。
するとラヴェルは『とても美しい曲だ…、作曲者はどんな人だろうね?』と聞いてきました。
記憶障害が進行して、とうとう自分が作った曲もわからなくなってしまったのです。
そして62歳で生涯を終えたのでした。
音楽に対する意識の高さ
ラヴェルの一生は悲しすぎる最後を迎えるわけですが、自分が作った曲がわからなくなっても『美しい』と思える、
音楽に対する変わることの無い愛情・絶対的な美意識を無くさなかったことがとても羨ましいです。
今日は悲しい感じだったので、明日は楽しいことを書きます!